豊橋駅前 まちなか神社のホームページ

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〒440-0881 愛知県豊橋市広小路3丁目82番地

吉田天満宮の由緒
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 吉田天満宮(江戸時代は満天神社、昭和前期までは吉田天神社

○社紋(うめばち)

一重の梅の花を正面から見た形を図案化したものです。中心から放射線状に配置した花弁が太鼓のバチに似ていることに由来しております。また、梅は早春の雪の中で最初に花を咲かせる強靭さから、古代中国では菊・竹・蘭と並ぶ四君子(しくんし)として神聖視され、日本に入ってからも貴族達に愛されておりました。このため、奈良・平安前期までは、花見というと梅をみることであり、梅の花で来春を祝いました。これと祭神である菅原道真公が下の和歌の如く、梅をこよなく愛されたことと結びついて梅の社紋となっております。

     東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花
           主(あるじ)なしとて 春を忘るな

 
   意味
 春の訪れと云われる東風が吹いたら、開花させなさいよ、梅の花
      主人(菅原道真)が太宰府に流されていなくなっても、春を忘れるなよ

○祭神 菅原道真(正式名 天満大自在天神→略して天神
                     当社の通称 赤天神

承和三年(845)に生まれて、年少より学才高く、宇多天皇と藤原基経との政治紛争 阿衡の紛議(あこうのふんぎ)で仲裁を行ったことで、天皇の信任、重用を得ました。寛平六年(894)に遣唐使中止の建議や延喜元年(901)完成の日本三代実録(正史書)の編纂など携わるが、昌泰二年(899)に左大臣藤原時平の讒言(ざんげ)により、太宰府政庁(福岡県太宰府市)に流され、亡くなられました。
その死後に藤原時平の若死や朝廷の建物である清涼殿(せいりょうでん)への落雷などで、菅原道真の祟りと恐れた朝廷は、道真の罪を赦す共に
正一位太政大臣の贈位を行い、祟りを鎮めようとしたのが、天神信仰の始まりです。今では、学問の神、書道の神として信仰されています。

○吉田天満宮の歴史
吉田天満宮は、往古、菅原道真公の神像が鹿菅(現在の下地・横須賀・下五井・清須町一帯)の海辺に漂っていたのを里人が石塚(現在の花田町)の辺りに小社を建てて祀っていたのだが天文元年(1532)に岩崎玄朝(いわさきげんちょう)が奉祀したことに始まる。寛永八年(1631)に吉田城主
松平忠利(まつだいらただとし)が造営、延宝二年(1674)吉田城主 小笠原長矩(おがさわらながのり)は拝殿・楼門を建立した。なお、城主小笠原氏は、赤い馬で城下視察と共に参拝によく参られたことで、赤馬の天神、赤天神と言われるようになりました。
その後、拝殿の格天井に「月と雁」の絵が、花園町の鈴木三岳(すずきさんがく)という弟子の名で、蛮社の獄で謹慎中の渡辺崋山が、天保十一年(1840)に描かれたものが奉納されました。
また、正面に掲げる扁額(へんがく)は明和七年(1770)に、この地に来遊した彦根藩の儒者 龍公美(りゅうこうび 又はりゅうきみよし)の筆であって、共に世に推称されるところでありました。
しかし、昭和二十年(1945)6月20日の戦災で社殿を始め焼失しました。昭和二十四年の市復興計画整理に伴い、、吉田天神社を現在の所に遷座し、昭和三十年に白山比咩神社相殿に合祀される。平成二十三年に都市再開発事業に伴い、吉田天満宮社殿を新たに建立し遷宮を致しました。

           

上の絵は、文化三年(1804)ごろの三河国名蹤綜録(みかわこくめいしょそうろく)に描かれた吉田天満宮の境内図です。戦前までは、北に50メートルにある、柳ケ瀬通付近にありました。右の写真は、現在の社殿です。