豊橋駅前 まちなか神社のホームページ

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〒440-0881 愛知県豊橋市広小路3丁目82番地

白山比咩神社の由緒
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 白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)  通称 白山神社(はくさんじんじゃ)

○社紋 三子持亀甲五つ唐花 (みつこもちきっこういつつからはな)


社紋の外枠は、亀が三匹重なったのを上から見たもので、三世代を表しております。また中央のものは、「唐花」(からはな)という想像上の植物で、永遠の美しさや生命力、無限の発展性を表す花として親しまれてきました。これらのことから、この社紋は氏子崇敬者が子々孫々まで繁栄しますようにという、ご神徳を表しております。

○白山比咩神社のご祭神 
白山比咩大神(しらやまひめのおおかみ)で、菊理姫神(くくりひめのかみ)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の2柱

養老4年(720)に書かれた日本書紀という書物の中にある神話の話です伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)が、日本列島を創りと太陽や水、植物などを産んだあと、最後に火を産んで、伊弉冉尊が亡くなり黄泉の国(死者の国)にってしまいました。そのため伊弉諾尊がつれて帰ろうとしたのですが、変わり果てた姿にびっくりし、逃げ帰ろうとして泉津平坂(よもつひらさか・現世とあの世の境目)で言い争うになりました。この時に、菊理姫神(くくりひめのかみ)があらわれて何かを話して、無事仲直りさせました。このことから、神名「くくり」から伊弉諾尊・伊弉冉尊の話を聞き入れ助言したと云う神話にちなみ、「話をくくる」の語源となっております。
これらのことから、当社は縁結び・復縁、諸難解決の神として信仰されています。

○白山比咩神社の歴史

白山比咩神社は、当初は白山権現という名前で、魚町の安海熊野神社(やすみくまのじんじゃ)の脇宮として祀られ、保延二年(1136)には札木町に移動しました。天文二十三年(1554)に、この地を納めていた駿府(静岡市)の今川義元から熊野白山二社に永銭十貫二十四文の奉納がありました。これに続き、永禄六年(1563)に今川氏眞が社領を寄進し、神事祭礼修理等怠慢なきことを命じられました。
天正十八年(1590)吉田城主池田輝政が城を拡張するため、魚町に遷座しようとしたのですが手狭のため、宮司邸があった現在の地に遷りました。
寛文五年(1665)に、神輿を新しく作ったことから花祭が始まります。神輿は、安海熊野神社(後に神宮寺、明治以降は吉田天神社)から出発し、中柴町の諏訪神社に行くお祭りで、紙で桜花を作って竹に刺したものを背負い踊りながら練り歩きました。藩主や家老に警備状況の報告が上がり、日記にも記述されるほど盛大な祭りでありました。また、庶民には八町の鬼祭、関屋の祇園祭共に吉田の三大祭と呼ばれました。
明治初年に名前を、現在の名前である白山比咩神社と改め、豊橋駅の開設や市電の開通で街と共に発展してきましたが、昭和二十年(1945)6月20日の戦災にて、社殿をはじめ建物や花祭などの道具は焼失しました。終戦と同時に、豊橋陸軍予備士官学校の神殿を譲り受け、昭和二十年10月18日に遷座祭を行いました。昭和三十年(1955)には豊橋では初めて、当時では珍しい鉄筋コンクリート建ての現在の社殿を、名古屋・岐阜・岡崎・浜松・吉田城の再建を手掛けた、名古屋工業大学教授
工学博士城戸久(きどひさし)氏による設計で再建しました。当時としては、ハイカラな社殿のため、神前結婚式の先駆けとして有名になり、多くの人が華燭の典を挙げられました。平成二十三年の都市再開発事業に伴い、社務所の新築や境内整備などを行い、現在に至ります。



文化3年(1804)ごろの三河国吉田名蹤綜録に描かれた花祭の絵

    
    

       白山比咩神社社殿

活動

活動名

ここに活動の説明が入ります。

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